昭和46年07月16日 朝の御理解



 御理解 第95節 
 「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」

 勿論、御祈祷料を取ると。いわゆる御祈念料を取るとかと云った様な意味のことを、ここでは仰っておられるんじゃないかと思います。例えば、ここでも、御神米といった様なものが下がりますけれども、御神米と、御守札といった様なものとは、全然意味が違いますけれども。その護附を受ける。御守りを受けるのには、いくらいくら、特別御祈念料はいくらと、これは例えば、神社仏閣等では、それがございますですね。
 太宰府さんなんかにお参り致しますと、ちゃんと、御祈念料等と云うのが決っておりましてね。だから、そういう様な意味の事を、ここでは、金光様の御信心は、そうじゃない。それこそ、根本精神が、教祖様の信心の中心をなすものが、人が助かる事さえ出来れば良いというのでございますから。その辺のところはですね、金光教の信心の、特異性でもある訳です。
 今日私は、ここのところを、信心を押し売りすると、神様を押し売りすると。そういう様な意味でお話をしたいと思う。又、そういうつもりで聞いて頂きたいと思う。例えて、ここで皆さんが、長年信心をなさっておられますね。二十年間も、それ以上も、それでもまだお神様を、いわゆる、お家に奉祭してない、お祭りしてないという人も沢山あります、ここでは。まだ半年か一年でも、信心の有難さが分かって、是非お祭りをしたいと云うてお奉りしておられる方もあります。
 以前、椛目時代には、随分それがありました。もうあの時分の、椛目の状態というのは云うならば、打てば響く様なおかげでしたからね。おかげという面に於いては。ですから、もう有難さの余りすぐお神様を、お祭りしようごとして、こたえんごとなって来る訳ですね。それでいちいちその御神意を伺われると、まだまだと云う様なことでした。あの時分はお月次祭たんべんに、御神具屋が出張して来よりましたよ。
 それでそのお社を見ては、それを買うて帰って、それを中にお神様を奉って頂いて、いわゆる、家で拝みたいとこういう訳なんです。あの時分に、ずいぶんいけんと云うて断わられた人が幾らもあります。あの時分は、御本部参拝ですら、いちいち御神意を伺うてでしたね。今度は、この次にしたら良かろうとか。けれども思うてみると、本当にあの時に、お奉りしておかんで良かった。もしあの時、お祭りしておられたら、後祭り手がなかごとなっておった。
 後は信心をやめられたから、どんなに御祖末な事にになるやら分からんといった様な家が幾らもあることです。只ちょっと自分の目先のおかげを頂いたからと云うて、もう有難うなって、さぁお神様をお祭りすると言うた様な事を、当時の椛目では致しませんでした。今ここではねお祭りをしたいと云や、自分でお社を求められてそしてお祭りを、云うなら信心がです、いわば椛目合楽を通して、皆さんの信心が安定してきた。もう当然お家にお神様を奉らせて頂くのが、もう止むに止まれん思いで。
 そうするのが本当だと云う様なところが分かってみえられた方達なんですね。だから私が、あんたん方、いっちょ、お神様をお祭りすると良いかねと言うたことは一遍もないでしょうが。私はそれは、押し売りだと思うからです。今日は私、そういう意味合で聞いて頂きたいですね。成程、先ほど申しました様にね、御祈祷料がいくら、お守り札がいくら、よくここでお参りして来た方達に、初めて参った方達に、何の事か分からん訳ですよね。どんな風にして御神米を頂いてよいか分からん。
 それで御神米を下げますと、これはいくらお包したら良かじゃろうかと云うて、言われる方があります。それは、そういう意味の事を、ここでは神を商法にしてはならぬと仰っておることだと思うのですけれども。私は押し売りをするということ、神様の押売をすると。信心の押売をすると。金光様の御信心を、段々頂いたら、もうそれこそ、お神様のお部屋の一つも造らなければおられんのであり、それこそ金光様のご信心を頂いたら、改式をしなければおられんのである。
 だからそこんところが、私は本当に分かってからでなからなければいけないと思うから、いわゆる押売をしない訳です。あんた方は御霊様の改式をしなさいとも言わんし、お神様をお祭りしなさいとも言わん。お祭りさせて頂きたいと言うて、お取次を願わるれば、それをお取次させて頂くだけのこと。昨日は田主丸の小野病院ですね、小野先生のところのご遷座祭がございました。もうあちらは二十年来からの御信心です。もう一番初めの頃から、まだ病院を建てられる前から信心をなさっておられます。
 以前はこちらにおられませんでしたけれども、それでもやはり、電話でお願いをなさり、又、田主丸に帰られた時にお参りして来るという様な状態でしたが。田主丸に病院を開業されてからは、日参が、あぁして皆さんがご承知の通り、続いております。前々から、それは拝む対象として、天地書附けを拝まれたり、御神米を拝んでおられたということはあります。お母さんが昔からの御信者さん。
 ご信心をなさっておられますから、まあその小さい御宮の様な物があったことはあったけれども、小野孝治先生が、自分の神様として拝まれるということはなかった。今度、新築が出来ましたので、神様の御部屋が出来ました。高橋さんが、そこんとこだけは設計を、設計と云うが、色々神様の奉祭の事について相談を受けられて、昨日、参りましたが、もう見事なお神様の御部屋が、実にそれに相応しい御部屋が出来ておりましたし、もうそれは見事なお神様を奉祭されました。
 二十年間も毎日お参りをさせて頂よって、ようやく言やようやくですけれども。そこに初めて一家中の者が挙げて、お神様をお祭りすると言う事になられた訳なんですね。私は思わせて頂くのに私共が本当に、金光様の御信心の真価と申しましょうか、値打というか有難いと云うことが分からせて頂いたら、お祭りをしなければおられんのだと。ですから本人自身がそこまでの信心が高められ、向上してきてそこからお祭りをする奉祭をすると云うことになって、初めて神様もお喜び頂けると云う風に思うております。
 昨日あちらに参らせて頂きましたが、まぁそれはそれはまぁ行き届いたと言や、こういう事を行き届いたと云うのであろうかと思う位に、行き届いた御普請ですね。合楽の教会住居も含めて、とにかく行き届いた良い建築だと、皆が言われますけれども、これはもう一つ繊細にした行き届いた、それこそこれ以上な事は出来まいと思われる位に行き届いた御普請ですね。それはもう見事です。先生自身があんなに非常に気の付く方ですし、神経が小さい方ですから、もう建築屋さんのセンスも良かっただろうけれど。
 小野先生自身のセンスも素晴らしい。センスの点に於いても、使い勝手といった様な意味においてもそれは、それこそ至れり尽くせりであります。と云う様なご普請が出来ております。その中に一部屋、お神様のお部屋を設けておられる訳でありますがね。あちらのお母さん、御承知の様に、幼稚園をなさっておられます。私立の幼稚園ですね。昨日お話を聞かせて頂きましたが、あそこを卒業した園児が五千人居るそうです。それは大変なこと。二十五歳で未亡人になられた。
 そして孝治先生、それから西見病院に行っておられる娘さん。お子さんが三人かですから、それはそれぞれにあぁして育てられて、まあ大変な事であっただろうと思いますね。最近聞かせて頂いた話ですけれども、この頃からアメリカに招へいを受けられましてね、丁度、十日余り行っておられた。もう世界中行かん所はない。欧州、中国、中共、ソ連、もう全部回られた。
 つぶさな観察というか、頭も良いお方ですが、なかなか先生が見て回られた話を、昨日、お祭り前に聞かせて頂いて、ホトホト感心致しました。それにですね、それこそ、特に幼稚園をなさっておられますから、福祉関係のことを見て来られた。養老院ですかね、児童の施設なんかを見て回られた。まあ色々、そこの国々でやはり違うのだそうですけれども、やはり欧州あたりの行き届いた事には驚くばかりの、行き届いた老人ホームなんかと言うものが出来て居る。
 もう本当に、これだけの事が出来りゃ、息子も娘もいらんたい、これだけ国家がこれだけの事をしてくれるなら、至れる尽くせりの事が出来ておると言うことです。ですからもう、本当に、安心していうなら年を取られ、息子が見らんと云うなら、何時でんそういう施設に入って行けば、お国の経費で見てくれると云う様な、進歩した状態だそうでございますけれどもね。最近それがね、非常に自殺者が多くなったそうですね。
 養老院に入ってそういうそれこそ、手とり足とりするばかりの様な設備の行き届いた施設の中にあり乍らです。自殺者がとみに増えたということ。そして最近云うておることは、年寄りを家庭に帰せと云うことを、今、しきりに言っておるそうです。それでこれは、小野先生が、これは小野流ですけれどもと云うて、お話されました事の中にですね。そういう例えば、日本でも議員さん達が立候補される時に、そういう施設の事に力を入れると云った様なことを云われるが、そういう力を入れる事よりもです。
 そういう施設が無くて済む程しのお国柄というものが出来ることが先決だと、私は思いますと云うておられますですね。年寄りを例えば老人ホームに預けると云った様な家庭がですね無くなる事こそ、本当の幸せだと言う事です。何故そういう至れり尽くせりの設備はしてあるのにです自殺者が増えたり、とにかく是は英国で見聞した事ですけれどもと云うて話とられましたが時間が来ると、散歩の時間と言うとちゃんと公園の様な所に年寄りが出て散歩に出て、時間が来なければホームに帰られない訳ですね。
 それで確かに行き届いた、それこそ塵一つない様な公園のベンチで、いかにも形の上では楽しそうにしておられるけれども、老人の一人一人の眼は、それこそ疲れ果てた様な死んだ目ばかりだとこう言う。ここに出て来らんなんけん出て来とるのであって。そして時間が鳴ったら、慌てて家に帰る。といった様なことらしいですね。だから、人間の知恵とか力でね、型の中に入れた様な生活が、如何に、それは侘しいものか、云うならば血が通うていないと言う。
 それに引き換え、中国での例を話しておられましたが、あちらは皆さんも御承知のように、孟子、孔子の思想が、云うならば行き渡っておるところですから、とにかくその、親子、孫、三人貰うて歩いても一緒に生活をしておる。それの方がどの位、麗しいか分からないと、いった様な意味のことを云っておられます。親子、孫が一緒にね。それは例えば、この辺でも申しますよね。私の母なんか云いよりました。
 修行の真っ最中の時分にです、もう私達は、あんたがお粥をすするなら、私達もお粥をすすって、あんた達について来ると云いよりました。それの方がどの位温かみがあり、どの位血が通うたものになるか分からない。今欧州で、そういう設備がもう完璧という位に出来て、初めて分かった事はです。人間の心と心の触れ合いという様な事。家族中の者がです、一緒に寝起きし、一緒に寝食を共にすると云う様な、そういう中に、時には親子口喧嘩をする様な事、争いをする様な事もあろうけども。
そういう中にです、親子の情とか、兄弟の情というものが、密になって行くと云うことの麗しさという様なことをね、しみじみ感じて参りましたと云った様な話を、実に巧みな話術と云うですかね、とても話が上手です。そしていたる処で、小野先生は何十年間研究されて、折り紙ですね、千代紙を折るでしょう。あの折り紙で言われました。例えば親先生、あなたの顔を見ながら、私は折り紙で先生のお顔の特徴をちゃんと取って、ああこれは親先生だなと分かる位に折り紙で作ります。
 切り紙ではないですよ。折り紙ですよ。切り紙なんかよく見ますね。けども、折り紙でそれを作る、一枚の紙で作りますち言う。鼠なんかを折る時なんかは三年間かかったち。もうそのかわり寝ても醒めても、夢の中にヒントを頂いて、鼠が出来上がると云う位に熱心になさった。その折り紙の為に、アメリカから招へいを受けけられ、あちらこちらから招へいを受けられて、そして折り紙を折って見せる。
 そういうお話を聞かせて頂いてからですね。とにかく人間の本当の真価と申しますね、というものは、決して形じゃない。設備が至れり尽くせりに出来ておるという事ことじゃない。それは不完全でもよいから、そこの中に住む人間自身が、一つ高められなければならないと云うこと。私はお道の信心に於いてもそれを思うです。現代に布教する金光教と、現代にいわば社会のこういう難儀の中に布教して行くと言う事。
 それは金光大神のお取次の働きと云うものをです、そこの社会に表して行くことは有難いことは分かっておりますけれども。形の上で、私はそれを押売した所でです、それはもうそれだけのもの。信心に依って真に有難いと云った様なものを頂かせると云うことは不可能だと云うこと。問題は、真実、誰が見ても聞いても、成程と合点が行くような信心を、先ずさせて頂くということだと。
 昨日、あちらにやらせて頂いて、神様に御挨拶申し上げさせて頂いて、一番に頂いたのは、面白い表現ですけれどもね。ガラスで出来た小便徳利がありますね、男の使う小便徳利。それが勿論新しいのです。それに御神酒が入れちゃる。それでこうやって酌んでいるところを頂いた。これはいくら新しいものであってもです、どうも中に入っとるとが小便のごたる感じ。酒の色と小便の色はあまり変わらん。中は勿論それは小便徳利ではあるけれども、一回も使うたことのない。その中に御神酒が入っている。
 いかにそれが御神酒であっても、飲めば酔い有難いものであってもです。やはりどうぞ一献と云われても気持ちが悪い。中はほんなものであっても形が、形がほんな事であっても、中身が悪かったらいけん、そこの所が伴うていかなければならない。是は小野先生だけのことではなかろうけれども、合楽に信心させて頂く人の皆がです。本当に御神酒徳利の中に、本当の御神酒が入っておって是をどうぞと云うて人に差し上げるならばです、みんなも信心の無い者も、信心の薄い者も有難いと云うて頂くだろう。
 けども小便徳利に入れてから、こうさされたんじゃ、やはり、二の足を踏みたいごとある状態である。まあこれは小野先生のところで頂いたから、小野先生のところにお話させて頂いたけれども、合楽全体の場合を考えてもです、何かそういうものじゃなかろうかと私は思う。今朝から、私、御神前に出てから頂きますことが、先日あのたまたま夜のテレビを見せて頂いておりましたら、女人武蔵と云うのがありよりますね。女の武蔵と書いてある。その中にね一色多聞と云う人が出て来るんです。
 どういう事かと思うた。一色多聞と言うのは。次ぎにはね四面楚歌という事を頂いた。これは確かに支那の言葉です。四面楚歌一色多聞。どういう様な事であろうかと思うて、今日は、思わせて頂いておったら、この九十五節をこう頂きます。例えて云うと本当にこれは、私自身有難いと思うておる、合楽の信心は素晴らしいと思うておる。皆さんもそれを思うておるからお参りになる。けどもこれが果してね、本当に素晴らしいのであろうか。それは成程本当な酒かも知れんけれども。
 それこそ小便徳利に入れておる様な御神酒じゃなかろうか。燈台元暗しと云うけれども、そういう四方に光を輝かせる程しの光を持っておって、何故足元が暗いのか。本当の信心の光と云うものは、先ず足元から、そしてこう光って行くのが本当じゃないか。合楽の教会であるなら、合楽の地元の方達が、真実金光様ちゃ有難いなと分からせて頂けれる、その光に潤う程しのおかげを頂かなければ、本当なものじゃない。そういうところに、私は何か四面楚歌と云った様なものを感じます。
 そこからです、一色多聞、合楽一色とでも申しましょうか。もう合楽なら絶対だ、間違いないと云うておられることも有難いことなんですけれども、果してこれで良いのであろうかと、私は多聞のおかげを頂かなければならない。多くを聞かなければいけない。多くを摂取しなければいけない。もっと素晴らしいものを。例えば近所の人ですらがです、あの人達はそうにゃ合楽に参りよってばってんから、と云うて、後ろ指を指す様なことであってはです、それはもう四面楚歌です。
 自分の周囲にすら、それを潤しきらんのですから、自分よがりです。本当に小便徳利の中に入れておるお酒の様なものではなかろうかと思うてみてです。自分の形の上なら形の上の事をです、あぁこげなこっじゃ、人がついて来ん筈じゃと、と云った様なものを、猛反省させて頂かねばならんのじゃなかろうかとこう思うのです。例えば今の欧米諸国ですね、欧州あたりの、もうこれより、これが一番立派な生き方だと、福祉関係のことでもです、もう徹底して人間の幸を確保する為に、そういう施設が出来た。
 ところが、そのなかの老人施設の中でです、老人が次々と自殺していく様な、自殺者が非常に増えたと云うこと。そこんところをですいわばあちらの人達は気付いて来た訳ですね。合楽の教会のあらゆる施設素晴らしい。宗教関係の中でもです、頭角を表し得る程しの施設設備が例えば出来たところでもです。足元の人すらが金光様と言わん様なことではです、これはここに大いに猛反省しなければならんのじゃなかろうか。
 そういう信心ではまだまだ押売する事はいけないなと、私は今日思わせて貰った。あぁもう有難いですよ私の話を聞きなさい。ただ自分の云う事ばかり人が言う事を一つも聞き入れようとはしない。自分の生き方が一番間違いないといわば過信する。そこに四面楚歌になる元があるのではなかろうか。多くを聴聞しなければいけない。皆の話を聞かなければいけない。そしてそういう形の上の整い切って仕舞うてから、初めて老人を家庭に帰し、帰さなければ本当の事ではない事を云うておるという事からね。
 私共も矢張りそれを感じさせて貰い、そこん所を頂いて行かねばならん。実際に頂いてみると間違いなし立派な、決して不潔なものの中に御神酒は入っておるのだけれども、そのもの自身がいわば小便徳利に使うもの、使ってはいないけれども、使うものの中に入っておったんではです、皆が安心して喜んで頂くと言う事はようせんだろう。愈々自分と云うものを本気で見極めなければならん。成程これで押売なんかは出来る筈はない、まだ。自分自身がもっともっと本気で助からなければならない。
 この方は銭金では拝まん。神を商法にしてはならんと云う、九十五節の芯から少し反れておるか知れませんけれども。例えば、商法と云や、先ず売るとか買うとかという事を申します。だからそこんところに、今日は絞ってお話を聞いて頂いたのですけれども。押売をし、売ると云うかね、と云うことよりもね、やはり中身も形も本当について来なければおられない程しのものを、先ず私共一人一人が、頂くという事だと云うこと。
 私が御信者の皆さんにでもです、二十年も信心しよりなさる方にでもです、あぁお家に金光様をお奉りせにゃ、改式をいっちょせにゃと云うて、押売をしない様に。本人自身が金光様の御信心を本当に頂いたら、家にお奉りしなければおられんのであり、改式しなければおられんのである。それが金光様の御信心の本当のもの。それを先ず自分自身が体得することが先ず先決である様にです、もっともっと学ばせて貰わなければならない。本気で、本当の修行に取り組ませて頂かなければならない。
 自分でよかつのごと思うておる。自分の云うことはもう絶対のものとして、人のことを聞こうともしないと云う様な態度では、信心が本当なことには進んで行かないと思う。信心のなか者ばっかりは気の毒だと、成程ある意味では気の毒です。と云うてそれを軽く見る様な事であってはならない。私共がお道の御信心に依って、合楽に御神縁を頂いて、おかげを受けたならば、そのおかげの姿がです。
 誰が見ても成程だなと感じて貰える程しの、おかげに育って行かなければいけないと、言う風に思うのです。昨日の小野先生の所の奉祭のお祭りを奉仕させて頂いてから、そして今日頂きます、四面楚歌、これは私は本当の意味が分かりませんから、もう一辺よく字引でも引いて見て分かりたいと思うております。一色多聞と云うことは何とはなしに感じられます。自分よがりではいけない。
 多くを聞かなければいけないと云う様な 意味だと思うのですけれどもね。肝心要の、形の上に整う、一通りの信心は分かったと云うだけではない。それで足元のものがついて来ないならば、自分の周辺の者すらがついて来ないならば、これは自分の信心をもう一辺反省させて頂いて、誰でもついて来れる信心を頂きたいものだと思いますね。これならば押売をせんで済む。向こうの方から買いに来る。向こうの方から、どうぞ私を連れて行って下さいという事になるだろうと思うですね。
   どうぞ。